神武天皇祭の起源について、「井原頼明著 増補 皇室事典(昭和17年)」に次の記述がある。
『
神武天皇は、御即位716年3月11日(太陰暦) 大和の橿原宮に宝算127を以て崩御あらせられ、畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)に斂め奉った。然るに建武以来戦乱相次ぎ、畏くも御稜威は荒廃に委せられるに至ったが、元禄12年に歴朝山稜の修理があり、天保年間に再び山稜修理の議が起り、約30年後の孝明天皇の文久3年12月に御稜威は確定せられ、御修理は完成して、翌元治元年3月11日天皇は親しく清涼殿に出御され、遥拝式を行はせられ、山稜には勅使を御差遣あり、その後毎年山稜祭には勅使を御差遣あらせられる事となった。維新後さらに山稜の御修理が加へられ、今日の荘厳さを見るに至ったのであるが、明治3年3月11日(陰暦)明治天皇は神祇官に行幸され、御親祭を行はせられ、同4年には全國一般の遥拝式を定めさせられた。かくて明治7年から太陽暦に換算した4月3日に神武天皇祭を執り行はせられる事になったのである。
』
※些少、表記に編集あり
神武天皇祭(大祭)は、初代神武天皇を御偲びされ、御偉業を追慕される御祭典で、天皇が崩御された「春三月甲午(こうご)ノ朔(つきたち)甲辰(こうしん)」(太陰暦3月11日)の日を太陽暦に換算して4月3日に行はれる。特にこの日は楽部により「東遊」が奏せられ、また夕べにはかつて紀元節祭に奏されてゐた御神楽を、紀元節祭が占領軍に認められず廃止された事に伴ひ、昭和24年(1949年)よりこの日に移して行はれてゐる。また大和の神武天皇の畝傍山東北陵にて御祭典があり、勅使を御派遣になられる。幕末に戸田忠恕の建議により、幕府は山稜奉行を置き、各陵墓を修築した。文久3年(1863)に現在の御陵を神武天皇陵(それまでは現在の綏靖天皇陵が神武天皇陵とされてゐた。小字の地名のジムタ{神武田} ミサンサイ{みささぎ=陵}が治定の参考になったと云ふ)と御定めになり修築され、翌元治元年(1864)3月11日に徳大寺実則を勅使として御祭儀を行はしめ、この時孝明天皇は清涼殿東庭から下御されて遥拝なさった。
これより毎年の例となり、明治2年(1869)3月11日以来勅使参向の事があり、同3年(1870)からは神祇官に於いて御親祭になられ、また勅使を差し向けられた。以後、陵域を整備して、明治23年(1890)には橿原神宮が御鎮座になり、永く初代神武天皇の御鴻業を仰ぎまつる事となったのである。
神武天皇祭は、大祭で休日(祝祭日)であったが、昭和22年5月2日、GHQ(連合国軍総司令部)の統治の下、皇室令及附屬法令廢止ノ件(昭和22年皇室令第12号)により、皇室祭祀令は廃止されたが、現在も宮中祭祀として、宮中の皇霊殿と神武天皇陵に治定される奈良県橿原市の畝傍山東北陵で儀式が行はれる。当日、皇霊殿で儀式が行はれるとともに、勅使を差遣されて畝傍山東北陵に奉幣を行ふ。(wikiより)
平成28年(2016)は、神武天皇が崩御されてから2600年といふ式年の年で、橿原神宮にて4月3日に、100年に一度の御祭典として「神武天皇二千六百年大祭(神武天皇二千六百年式年祭)」が斎行された。この年の神武天皇祭終了後、天皇皇后両陛下は橿原神宮へ行幸啓、御親拝された。
以下のwebページに、その詳細が記述されてゐる↓
[平成28年4月3日 神武天皇二千六百年大祭]
- ※参考文献
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- 「中澤伸弘著 宮中祭祀 ~連綿と続く天皇の祈り~」
- 「井原頼明著 増補 皇室事典(昭和17年)」
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