戦前の我が國では、「祝祭日」が定められてゐた。今日の単なる休日化した「国民の休日」とは異なってゐたのである。「祝祭日」が宮中祭祀 = 神道と関連が深いことを知ったGHQ占領軍は、まづこの『祝祭日』の廃止を指示した。而して神武天皇の建國を祝ふ紀元節は占領軍に認められず廃止された。戦後の「国民の祝日」は、神話に基づく由緒を抹殺してゐるのである。紀元節は廃止されたが、その後國民の復活に向けた努力により、昭和41年(1966)に紀元節ではなく、「建国記念の日」として制定された。所謂右派の側で、「建国記念の日」につき、これは紀元節そのものであるから、と満足げに語る者もゐるが、戦後、紀元節の廃止に伴ひ、紀元節祭も除かれた状態である。
紀元節は、紀元前660年1月1日(皇紀元年)に、初代神武天皇が大和の橿原の地に宮を建てたと日本書紀に記述がある事から、明治政府がこの日を日本の建國を祝ふ日として定めたものである。辛酉の年の元日を維新後に換算(1月29日)、さらに神武天皇御即位の日を新暦(グレゴリオ暦・太陽暦)に換算して2月11日と定めた。
戦前は、神武天皇の建國を偲び、紀元節祭を大祭として皇霊殿、賢所にて御親祭なされたが(但し玉串は皇霊殿のみ。元来皇霊殿だけの祭祀だったが昭和2年の皇室祭祀令改正で三殿で斎行されるやうになった)、上の通り、戦後、紀元節の廃止に伴ひ、宮中におけるこの御祭典も除かれ、今に至るのである。
但し、2月11日の旬祭にお出ましの後、お供へ物を改めて再び「臨時御拝」と称して祭典が行はれる。なほ、紀元節祭に行はれてゐた御神楽は、4月3日の神武天皇祭の夜に行はれるやうになった。
宮中における御祭典が廃止された状態で、「建国記念の日」と云はれても何を以て建国としてゐるか?不明確ではあるまいか。
例へば、中華人民共和国は1949年に毛沢東をして建国宣言がされた。これも建国記念の日だ。
「建国記念の日」を『紀元節』の名称に復し、紀元節祭の斎行を復元するべきである。当然、占領典憲の無効確認、及び明治皇室典範を奉還する事で解決するのである。
- ※参考文献
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- 「中澤伸弘著 宮中祭祀 ~連綿と続く天皇の祈り~」
- 「井原頼明著 増補 皇室事典(昭和17年)」
- 「中澤伸弘著 一般敬語と皇室敬語がわかる本」
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