【捏造】南京事件を検証する

南京虐殺とは、支那事変における蒋介石國民党側、中華民國の戦時宣伝であった。
では何故支那中共は、南京事件を云ひだしたのか。
中華民國は、戦時宣伝として残虐行為を捏造した。ならば、支那共産党はどうであったか?やはり捏造した。
蒋介石の中央軍が上海で壊滅的な打撃を受け、南京、徐州、漢口の戦ひで弱体化していくのに反し、支那共産党軍は力を蓄へ、やがて河北省まで進出して、日本軍と向き合ふ事になった。
この頃から支那共産党は、三光政策といふ言葉を使ひ出した。
光といふ言葉は、支那で空っぽを意味する。三光とは、殺光、焼光、槍光を指し、皆殺しにする、焼きつくす、奪ひつくす、といふ事である。
第八路軍(支那共産党軍)副司令彭徳懐は、1939年から日本軍は三光政策を持ち出してきた、総司令の朱徳は、1941年7月初めから日本軍は三光戦略を開始した、主席の毛沢東は、1939、1940年と日本軍は三光政策を行ったと述べてゐる。
日本軍は、皆殺しと、焼きつくしと、奪ひつくしを行ってゐるといふ宣伝である。話す人によって時期が異なってゐるのは、宣伝だからである。
そもそも日本語の光に支那で使はれる意味はなく、三光政策といふ言葉もない。日本にこの言葉が入ってきたのは、1957年。
この言葉は、日本軍だけに使はれたのではない。
1930年~1935年にかけ、國民党軍と支那共産党は五次にわたって戦ふが、この時支那共産党の朱徳は、國民党の作戦を三光政策と非難してゐる。
1946年7月22日、国共合作は破綻、内戦が始まる。それから1年程した1947年10月、毛沢東は、「人民解放軍宣言」にかう書いてゐる。
「蒋介石軍は、行く先々で殺人、放火、強姦、掠奪を行ひ、三光政策を実行し、その行為は日本の強盗どもと、全く同じであった」このやうに國民党にも使った。
支那共産党は敵の残酷さを宣伝する文句として三光政策を使ってゐたのであり、1939年頃からは日本軍に対しても使ひだしたのである。
1949年10月、支那共産党が勝利を収める。毛沢東は北京で中華人民共和國の成立を宣言し、破れた蒋介石は台湾に逃れた。
支那共産党が南京を手中にしたとき、雨花台に殉難烈士陵園を設け、毛沢東揮毫の石碑を立て、國民党は支那共産党の烈士30万人を虐殺した、と刻んだ。30万といふ数字は、國民党を批判するときのもので、支那共産党の念頭に南京事件はなかったのである。
蒋介石を台湾に追ひやると、毛沢東は出来る限りの船艇を用意し、台湾攻略に向かふ。金門、馬祖を攻めるが、攻めきれない。
やがて熱戦は収まるが、蒋介石は大陸反攻を唱へ、お互ひの宣伝が続いた。
中華民國の台湾では、三光政策が支那共産党軍の闘争スタイル、と学校で教へた。
日本が三光政策を行ったと中華民國で云はれる事はなかった。
支那中共では、中華民國が南京の防衛に失敗したと指摘しても、中華民國の宣伝である南京虐殺を口にする事はなかったのである。
ともに相手が何を宣伝していたか、よく知ってゐたのだ。
中華人民共和國は成立したものの、日本は中華民國と国交を続けた為、支那中共は罵詈雑言を以て日本を非難し続けた。
1955年7月、日本が生死不明の四万人を問ひ合はせると、支那中共は、そのやうな日本人はゐないとした上で、日本の軍國主義者は一千万人以上の支那人民を殺し、何万もの支那人を連行して奴隷のやうにこきつかったり殺したりしたと非難した。1957年6月5日の再度の質問にも、侵略戦争に参加して失踪した日本人について支那人民は如何なる責任も負へない、と拒否した。
1970年4月19日、周恩来首相は松村謙三訪支団に、支那は絶対に人の領土を侵略しない、侵略したのは日本、過去何十年にわたって日本が支那に侵略した事は歴史の事実、と述べた。
支那中共は歴代の日本内閣をも激しく批判した。
このやうな誹謗を繰り返してゐた支那中共であるが、そのなかで一度たりとも南京事件を持ち出して日本を非難する事はなかった。
1972年、日本と支那中共の間で國交回復の交渉が始まる。勿論南京事件が議題になる事はなかった。
1972年9月には、日本と支那中共との國交が正常化し、日本と中華民國との國交は断絶した。すると、中華民國が南京事件を取り上げはじめたのである。
「かうした戦闘員・非戦闘員、老若男女を問はない大量虐殺は、二ヵ月に及んだ。犠牲者は三十万人とも四十万人ともいはれ、いまだにその実数はつかみ得ないほどである」
中華民國は戦時宣伝として南京事件をでっちあげ、戦後は日本を批判する時に南京事件を使った。
1975年4月5日、蒋介石が亡くなった。翌1976年9月8日、6歳下の毛沢東も亡くなった。罵倒し合った二人が亡くなったのである。
それから数年、支那中共の教科書に初めて南京事件が載った。事件があったとされてから半世紀近くが過ぎてゐた。
「人民日報」が初めて南京事件に言及したのも、1982年8月13日である。仇敵である蒋介石の宣伝を利用しても、最早支那中共に咎める人はゐなかったからであらう。
1985年8月15日には、南京に虐殺記念館が建てられた。
第二次世界大戦が終わった時、中華民國は「南京地方法院検察処敵人罪行調査報告」を作成したが、その最後でこのやうな「建議」をしてゐる。
「よろしく一個の記念館を建設し、絵画彫刻を以てその実相を模写し、また一度その中に入れば触目驚心せしめ、以て教誡激励の資料と為すべきなり。これ購人館建設すべしとなすところの理由なり」
記念館を建設すべきといふ中華民國の建議であるが、50年近く経って、中華人民共和國がそれを成し遂げたのである。
記念館は改装を繰り返し、今では豪壮なものとなってゐる。

※参考文献
  • 「阿羅健一著 謎解き南京事件」

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