二・二六を考察する

二・二六を、当時支配した思想、一定勢力の謀略、それに加へ、武士道の視点からもみていかうと思ふ。

二・二六の理論的支柱は、北一輝であり、栗原中尉は、「機関説的天皇より自主的天皇へ、これ昭和維新の一大目標ならざるべからず」
と述べてゐるやうに、天皇機関説事件は、二・二六と一体化していくのである。

北イデオロギーを最も深く信奉した磯部大尉は、政治思想が北直流の革命主義であり、彼は栗原中尉とともに、二・二六における中心的な指導者である事は疑ひない。けれどもこのやうな思想が、全ての青年将校を代表するものではない。奉勅命令が明らかとなれば、無条件に帰順し自決すべきだとの思想の方が多数派であらう。
その典型的なものは、自決せる河野寿大尉にもみることが出来る。
河野寿大尉は、北流ではなく、帝國陸軍の直流であり、それは二・二六の将校の中だけに限っても、寧ろ多数派の思想である。

そもそも北一輝が「日本改造法案」で教へた革命的國家観に立つ限り、軍閥幕僚の補佐によって下達される奉勅命令に服従するやうでは、革命ははじめから問題にならない筈である。革命とは、天皇をして、重臣・軍閥等々の意思代表の地位から、一転して革命党の意思代表者たらしむる事を意味する。奉勅命令で崩れ去ったのでは、少なくとも、革命党ではない。
中村武彦氏は、尊皇を叫んで立ち上がった青年将校が、「奉勅命令」によって鎮圧されねばならなかった原因を論じて、青年将校とその思想的指導者と目されてゐる北一輝の間には、思想的性格に異質のものがあった事を指摘してゐる。
「青年将校と北イデオロギーは、それほど密着不可分のものではなく、むしろ民意強行と大流血を教へる筈の北イデオロギーを実行しなかったところに日本的風格とともに、その失敗の一因が認められるのである」
青年将校は、忠諫の志を以て、非合法的な兵変をおこしておきながら、最後の瞬間に至るまで「忠誠なる帝國軍人」としての名をけがす事をおそれた。「奉勅命令」の発せられる段階になると、一戦を交へる余地もなく、崩れ去った。それは、彼らが最もおそれた「帝國軍人としての忠誠の名」をけがす事をおそれたからに他ならない。
二・二六の青年将校は、建設的な政治思想がなかったのではなく、各人にはそれぞれの思想があるが、その間に「一致」がなかったのである。

ならば、その間に「一致」がなかった青年将校を動かしたものは何であったか?

当時の陸軍内部は『蒋介石と和解し、ソ連に対抗する為の國力の充実をはからう』といふ皇道派と、『対ソ作戦は棚上げにして、まず、シナ大陸を支配しよう』といふ統制派と二つの派に大別されてゐた。
二・二六によって『蒋介石と和解し、対ソ作戦の準備に力を入れよう』と主張する人々はほとんど陸軍から排除され『支那大陸への侵攻』を考へるグループによって陸軍の主導権が握られたのである。
これは、コミンテルンにとって都合のいい勢力だけがタイミングよく残ってるやうにみえ、とても偶然とは思へない。
青年将校のかなりの部分はコミンテルンの指令に従ってゐるか、あるいは何者かに洗脳され焚き付けられて、そのやうに動かされてゐたのではないだらうか。

第6回コミンテルン大会のレーニンの演説を引用する。
「帝国主義戦争が勃発した場合における共産主義者の政治綱領は、
(1) 自国政府の敗北を助成すること
(2) 帝国主義戦争を自己崩壊の内乱戦たらしめること
(3) 民主的な方法による正義の平和は到底不可能であるが故に、戦争を通じてプロレタリア革命を遂行すること
共産主義者はブルジョアの軍隊に反対すべきに非ずして進んで入隊し、之を内部から崩壊せしめることに努力しなければならない」

レーニンの「敗戦革命論」に刺激されて、軍隊を「内部から崩壊せしめる」為に入隊した隊員が少なからず存在し、その中で兵を統率する立場になった者が相当存在してゐた事は確実だ。

※参考文献
  • 「三田村武夫著 大東亜戦争とスターリンの謀略」
  • 「中川八洋著 山本五十六の大罪」
  • 「葦津珍彦著 武士道 ~戦闘者の精神~」

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