戦國乱世の武士道 ~ 後藤又兵衛基次と真田一族 ~

「忠」とはそもそも真心といふ事なのだ。真心を以て主君に対するのを忠臣と称し、真心を以て友に対するを忠友と称する。

大阪落城の際に、勇名を残した後藤又兵衛基次の話をしたいと思ふ。
彼は、如水黒田孝高の子の長政に従って戦場を往来したが、ある時戦ひ破れて、如水からおおいに叱られた。
長政一家一同恐縮して髪を切り、謹慎につとめた。
ところが又兵衛だけは平然と髪も切らず、いつものやうに歩きまはってゐる。
同僚が
「髪を切れ、不謹慎のやうで世のそしりもまぬかれまい」
といったら、彼はきかなかった。
「この戦乱の世に、一時一局の勝敗で髪を切れるか。この次の戦ひでは、美事な戦ひを見せてやる」と。
彼は、世のそしりをまったく無視して、おのれの「武士としての本心・本意」の儘に行動する。そして次の戦ひで、精敢な戦ひぶりを示して武功をたて、如水を感嘆させた。
戦國の武士は、戦場から戦場への生涯を送った。
そのやうな生涯の中にあって、悔いの無い堂々たる武士として進退し生死の決断をする為には、その行動は、おのれみずからの本心の儘に進退するだけの勇気がなくてはならない。
「世のそしり」を恐れたり、勤務評定に気がねするやうでは、いさぎよい生死の決断はつかぬ。真に、髪を切って謹慎したいと思ふ者はさうするもよからう。だが「それには及ぶまい」と思ってをりながら「世のそしり」や勤務評定が、気になって謹慎するやうな奴では真の武士になれない。形ではない、心の儘に動くか否かが問題である。

基次と同じ時代の真田一族の話がある。真田昌幸が、関ヶ原の戦ひの前に、その子の信之と幸村に対して、東軍(徳川)と西軍(大阪石田)とのいづれに味方するか、と問ひただした。
昌幸は、往年の豊太閤との旧義もあり西側に味方したいのである。幸村も同じ心で、それが「武士としての義」だと信じてゐる。
ところが信之は違ふ。
「大阪への旧義は、それほどまで決定的に重いとは思はぬ。徳川に対しても縁も義も浅からぬ。しかし父や弟が西側に行きたいなら行くがいい。自分は真田の家をより大切だと思ふし、東軍に行く。万一、西軍が勝てば父と弟によって真田家は存続するだらうが、東軍が勝てば自分が真田家を守る。自分は東軍に行っても、昔の義朝のやうな親殺しには絶対ならぬ」といった。
幸村は、兄の考へは義を棄て利に走るものだとして激論した。
この激論を裁決して父の昌幸はいった。
「兄弟それぞれに道理がある。信之は、太閤への旧儀は、秀頼公に対してまで及ぶほどの決定的な重さがないと見て、真田の家に忠でありたいとする。幸村は旧儀を守りたいとする。おのれの考へは幸村に近い。幸村は、おれと共に西軍に来い。信之は、おのれの信ずるが儘に行動せよ」と。さすがに昌幸は、戦國乱世の英雄である。兄弟それぞれに、「おのれの信」に命を賭して戦へと命じた。誠に見事な裁断だ。
徳川、豊臣の大阪での決戦期には、既に昌幸は亡くなってゐた。兄弟は敵味方に分かれて戦ひ、いづれも武勇の名を高めたが、幸村父子は、大阪に殉じて一党ことごとく滅び去った。彼は、彼の信ずるところの「義」に死した。信之は、彼の信ずる「家門」の為に勇戦して、その目的を遂げ信州真田の藩を守り抜いた。
この昌幸と信行が敵対関係になったやうに、戦國時代には、父子兄弟、あい戦ふ事もまれではなかった。
真の武士らしい武士は、毅然としておのれの良心を貫き通した。昌幸父子のごときは、見事である。
昌幸は、信州において徳川の大軍を悩ましたが、遠く離れた主戦場の関ヶ原で勝敗は決した。信之は嘆願して昌幸の助命に力を尽くし、昌幸は高野山に引退した。信之の妻は、徳川の四天王・本多忠勝の娘で、夫信之に従って、毅然として沼田城を守った話は有名である。だが高野に引退した昌幸への心づかいも、誠に美しい。武士の妻女の進退節度が、乱世の中においても、如何に見事な心情とデリケートな道とを発見しえたか。
ここに一つの典型を見る思ひがする。
真田兄弟は激論して、敵味方に分かれて戦った。けれども、その間に憎しみや怨みがあったのではない。兄は弟を、弟は兄を「敵ながら天晴れな武士」としての戦ひぶりをしてくれる事を祈ったのである。

※参考文献
  • 「葦津珍彦著 武士道 ~戦闘者の精神~」

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