「天皇退位」を公然と否定された昭和天皇。光格天皇の御譲位受禅の儀式とは ~昭和節~ 皇紀2679年

4月29日
奉祝
昭和節

 2600年以上の皇統史に、「受禅」の対置語として、正語「譲位」がある。しかし、「退位」といふ奇天烈な言葉は、日本帝國に一度も存在した事はない。日本の歴史上、初めての新奇な語彙「退位」は、天皇制廃止を目的に、共産主義者が昭和19年(1944年)に造語した言葉である。
 共産革命語「退位」が、伝統的な正語「譲位」と同義ならば、何も問題はない。しかし、「退位」は、天皇制廃止を含意する、共産革命者達の特殊な政治語彙で、「1932年のテーゼ(=スターリンの日本共産党への命令)」に基づく”コミンテルン語”である。正常な日本臣民なら、”赤い二文字魔語”「退位」の排撃に、目くじらを立て、取り組まなければならない。

 奇怪語「退位」は、大東亜戦争中末期の昭和19年(1944年)春から、政府部内や宮中で密かに使用され始めてゐた。そして昭和20年(1945年)9月2日にミズーリ艦上の降伏文書調印から間もなく、共産主義者達によって、この語は一般臣民に広く普及された。
 これらの動きは、天聴に達してゐた。昭和天皇は、最初から門前払ひ的に無視される事を為されなかった。多少の考慮を払はれてをられる。とすれば問題は、昭和天皇は「天皇退位論」を脳裏の片隅でいつも検討されつつも、それに動揺される事はなく、いつの間にか否定されたといふ事。どうしてこのやうな思考過程を辿られたのか?
 昭和天皇が、全國民に向かって公然と「天皇退位」を否定されて、「退位」煽動の動きを完全封殺されたのは、日本占領が終結し國家主権を回復した昭和27年4月28日から5日後の、5月3日だった。皇居前広場での独立記念式典においてであった。
 昭和天皇の「退位」と東京裁判での訴追・処刑とそれらによる天皇制廃止を露骨に社是としてきた『朝日新聞』は、昭和天皇のこの「退位」排斥宣言を、悔しさが滲む一面大見出し「『退位』説に終止符」と、苦々しさいっぱいで報じた。「在位を続行して、日本國の再建に取り組む」との、昭和天皇のご決意表明の勅語は、次の文言。

 「この時に当り、身零薄なれども、過去を顧み、世論に察し、沈思熟慮、あへて自らを励まして、負荷の重きに耐へんことを期し、日夜たゞ及ばざることを恐れるのみであります。
こひねがはくば共に分を尽し事に勉め、相たずさへて國家再建の志業を大成し・・・・・・」

 この昭和天皇の勅語はまた、昭和19年(1944年)3月から左翼が造語し宣伝撒布してきたコミンテルン語「退位」を、8年間の寿命で「処刑」されたと解してよい。まさに、昭和11年(1936年)2月26日から昭和20年(1945年)9月2日までの9年間半といふ永きにわたり、暗殺・処刑と直面されてこられた昭和天皇にとって、「退位」は逃避でしかなかった。皇祖皇宗の御遺訓で三種の神器を奉戴する天皇の御位にあって、御在位し続ける事が日本帝國への献身だった。「退位」は、万が一にも選択してはならないものであった。

 昭和天皇とは、國を護るに必要ならば天皇としていつでも命を棄てる事を善しとされてをられた。ポツダム宣言受諾を決定した第二回御前会議(昭和20年8月14日)において、「自分はいかにならうとも万民の生命を助けたい」との昭和天皇の御諚は、この端的な証左である。

 正語「譲位」とは似ても似つかぬ天皇制廃止語「退位」の復活は、この「処刑」終了の昭和27年(1952年)5月3日から、64年の歳月を経た平成28年(2016年)8月、今上陛下のテレビ御諚に便乗したマス・メディアによってであった。
 安倍晋三総理は、天皇制廃止語「退位」を再び処刑抹殺せず、「退位特例法」にした。モスクワからスターリンが1932年の日本に与へた天皇制廃止命令から生まれた、共産革命語の「退位」は、これによって日本國の法律語彙に昇格した。

 さて次に、光格天皇の御譲位受禅の儀式、仙洞御所行幸の先例について纏めておきたい。
 文化14年(1817年)3月22日の午後、皇居(京都御所の内裏、清涼殿)における仁孝天皇(120代)の御受禅儀式は、その日の早朝8時からの、仙洞御所(上皇の御所)への光格天皇の行幸パレードで始まった。この行幸パレードそれ自体も、御譲位儀式の1つである。今般も、仙洞御所行幸パレードを決して軽んずべきではない。政府も國民も、光格天皇の仙洞御所への行幸を、御譲位儀式として、今上陛下(125代)におかれましても、厳かに壮麗にご再現されますやう、あらゆる智慧を絞らなければならない。
 光格天皇の仙洞御所行幸について、光格天皇が御座乗されてをられる鳳輦は、前後総勢807名の大行列の中程にある。鳳輦の前後左右の横に、合計120名の駕輿丁が従ってゐる。
 御受禅の儀式は、清涼殿にて、午前の仙洞御所御譲位儀式と同じ日の午後。その直前、剣璽が清涼殿に還幸され、剣璽渡御の儀が紫宸殿にて執り行はれてゐる。平安時代からの譲位・受禅の儀式は数10回あるが、全て内裏・紫宸殿にて同時に執り行はれてをり、仙洞御所・清涼殿・紫宸殿の三儀場に別けられたのは、光格天皇の一例しかない。
 皇紀2679年(西暦2019年)の御譲位・受禅の儀式は、今上陛下の仙洞御所が東京都港区高輪で、皇居から相当に遠いので、両陛下の仙洞御所への行幸パレードは、譲位・受禅の儀式の要、宣命と剣璽渡御の儀が5月1日に皇居で執り行はれた後に、挙行されるべきだらう。また、先帝・新帝の勅語は古式である宣命形式に戻すべきである。
 特に、譲位・受禅の儀式は、一秒たりとも空位を設けてはならず、同日かつ同時刻が絶対要件。即ち、「4月30日の譲位、1日空けて、5月1日の受禅(即位)」とは、天皇制廃止の共産革命の準備である。
 譲位される天皇の仙洞御所への行幸儀式を、『貞観儀式』では、まづ「天皇は、百官を従へて、本宮(内裏)を去って新しい御在所(仙洞御所)に遷られる」と定める。次に、天皇はすぐに内裏・紫宸殿に還幸され、その御臨席の下、皇太子が受禅される儀式が執り行はれる。その要は、紫宸殿(南殿)の”殿上の座”にある皇太子に向かひ、宣命大夫が”譲位の宣命文”を読み上げ始める。宣命文が読み終はると同時に、皇太子は新帝になられる。
 新帝の御所(内裏)に、内侍(女官)が「節剣」を、少納言が「”伝國の璽(國璽)”が納められてゐる櫃」を、もう1人の少納言が「鈴、印、鑰」を、近衛少将が「共御の雑器」を奉持する。この儀式の間、新帝は東宮御所に一旦戻られ待たれる。

 秋篠宮殿下は、皇紀2769年(西暦2019年)5月1日を以て、「皇太弟」におなりになられる。新・東宮として御多忙になられても、必ずや”第二の花園天皇”を踏襲されることに心掛けられ、皇太孫・悠仁親王殿下の御養育に専念第一に努められますやう言上申し上げます。

※参考文献
  • 「中川八洋著 徳仁《新天皇》陛下は、最後の天皇」
  • 中川八洋著 徳仁新天皇陛下は、最後の天皇

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