宮中の御祭儀 ~年のはじめ~ 皇紀2678年

『神殿へすのこの上をすすみ行く年の始めの空白み初む』(今上天皇御製)

 (当時)皇太子殿下の昭和49年歌会始のお歌である。
元旦、天皇陛下が四方拝の儀を修され、辺りが明るみ始めると、天皇陛下は、引き続いて隣接する宮中三殿の歳旦祭にお出ましになる。
今上陛下が皇太子殿下であった時、歳旦祭の御様子を詠まれたお歌である。
上部で「引き続いて」と記したが、宮中では元旦、四方拝の祭儀で明ける。
四方拝は、明治期になると、祝祭日の中の「四大節」の一つとして「四方節」と呼ばれるやうになった。
四大節とは、四方節(四方拝)・紀元節・天長節・明治節の事を言ふ。
四方節(四方拝)は、平安時代の中期には確立してゐた祭儀で、古くは虎の刻(午前四時頃)に出御されてゐたが、現在は午前五時半に神嘉殿の南庭の御屋根を設へた御拝所に脂燭の灯りのもと御剣とともに出御になる。
平安時代の儀式書である『西宮記』や『北山抄』などにも見える儀式で平安時代の初中期の宇多天皇の頃には行はれてゐた。
四方節(四方拝)と歳旦祭は、小祭である。
因みに、大祭には必ず御剣と神璽とを、小祭には御剣のみを伴はれて出御になる。
歳旦祭では、天皇陛下は御剣とともに賢所、皇霊殿、神殿の順に玉串を以て御拝礼される。続いて皇太子殿下が同様に御拝礼なさり、その後親王殿下ほか参列者が拝礼する。小祭には皇后陛下や皇太子妃殿下の御拝礼は無い。

 三日の元始祭は大祭で、三殿にて行はれる。年初に皇位の元始を祝ひ國家の安泰を祈るもので、明治五年に行はれて以来の御祭儀である。元始の名は『古事記』の序文から取った。これは大祭で天皇陛下の御拝礼ののち、皇后陛下、皇太子同妃両殿下の御拝礼がある。大祭は御親祭であるので天皇陛下が御自身で御告文を奏せられる。また御鈴の儀がある。

 四日には奏事始が宮殿の鳳凰の間で行はれる。陛下はモーニングをお召しになり出御、掌典長から昨年の伊勢神宮に於ける祭典、また宮中の祭典が滞りなく修された旨をお聞き取りになられる御儀である。
平安時代には『政始』が行はれてゐたが中世以来杜絶し、それを明治二年に再興し、天皇親臨のもと政治向きのことをお聞き取りになられ、その中で宮内大臣が神宮の祭儀のことを申し上げた。大正十五年に公布された皇室儀制令により「政始の式」が定められ、この時に第一に内閣総理大臣が神宮の御祭儀について奏上することとなった。まづ内閣総理大臣が神宮の御祭儀について奏上し、次に各官庁の事を奏上する。続いて宮内大臣が、皇室について奏上すると定められた。
しかしGHQ占領下における占領憲法施行によって、このことが廃止になり、神宮の奏事始として今に至り行はれてゐる。未だ無効な占領憲法を使ってるからに他ならない。

 七日は、先帝祭(昭和天皇祭)である。
先帝祭は、御先代の天皇の崩御当日に御追慕の思し召しで皇霊殿及び山陵で行はれる大祭である。
先帝の昭和天皇の崩御当日の一月七日に皇霊殿で天皇陛下御親祭のもと斎行され、皇后陛下、皇太子同妃両殿下が御拝礼される。また武蔵野陵に勅使を参向させて奉幣なさる。夜は皇霊殿の前で御神楽の儀が深夜まで行はれ、御父昭和天皇の御霊をお慰め申し上げる。
先帝祭は明治維新前には仏式で行はれて来たが、孝明天皇の三年祭に当たる明治三年に我が國古来の神式の儀式に改められ、当日京都の紫宸殿に御霊をお招きして行はれた。

※参考文献
  • 「中澤伸弘著 宮中祭祀 ~連綿と続く天皇の祈り~」
  • 「井原頼明著 増補 皇室事典(昭和17年)」
  • 「中澤伸弘著 一般敬語と皇室敬語がわかる本」
  • 中澤伸弘著 宮中祭祀 ~連綿と続く天皇の祈り~
  • 井原頼明著 増補 皇室事典(昭和17年)

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