魂とは。復古神道に於ける幽冥感 ~ 本居宣長と平田篤胤 その一 ~

 今こそ、大和魂を勃興させなければならない。内憂外患たる国難を突破せしむるべくには大和魂を奮ひ立たせよ!等と私もよく主張する。然らば抑も魂とは何なのか?即ち「復古神道に於ける幽冥感」を日本思想の面から少しばかり辿りたい。

 本居宣長は、在来最も重んぜられた日本書紀は、漢文的修飾ある故、その儒意佛意の牽強付会を、古伝として純粋な古事記の解釈から浄め去って、古代人の意識をありのまヽに再現しようとし、この精神とした彼の文献学的研究に於いては、「幽」といふ語に関する見解も、素朴であった。
 神代の伝説から見ると、初めに伊邪那岐大神と伊耶那美大神と分かれて、顯國と豫美とに行かれ、その子である天照大神と須佐之男大神も又相分かれ、さらに又、その子孫がかく分かれたので、このやうに幽顯相対立し、吉凶相あざなって結局は吉に帰すべき理りと云へる。しかし是等の事は固より神事で、人智では及ばぬ不可思議なところである。要するに宣長の解釈は、「幽冥(元は幽)」とは、豫美の事で、即ち死後人の行く國、幽事とは豫美に属し、顯に見る所以外の見得べからざる不思議のかみごとといふのが、大体と見なし得る。ここで出た幽事とは神事といふ意で、顯に目に見えず、何人が為すともなく、神の為し給ふ業である。対し顯露事とは朝廷の萬の政で、現世に於いて人間の行ふべき道である。
 「幽冥(元は幽)」といふ語は、元は顯露と対された語で、その最も主な出所は、日本書紀神代下、大己貴神が、高皇産霊尊の遺された二神に答へる段の第二一書の文である。


時に高皇産靈尊、乃ち二神を還り遣して大己貴神に勅して曰く、「今、汝が言ふ所の者を聞くに、深く其の理有り。故、更に條にして勅す。夫れ汝が治す顯露の事は、是吾が孫治すべし。汝は以ちて神事治すべし。又、汝が住むべき天日隅宮は、今、當に供へ造らん。即ち千尋の繩を以ちて、結ひて百八十紐と爲し、其の宮を造りし制は、柱は則ち高く大きに、板は則ち廣く厚くせん。又、田を供へ佃らん。又、汝が海に遊び往來の具の爲に、高橋・浮橋及び天鳥船、亦供へ造らん。又、天安河に亦打橋造らん。又、百八十縫の白楯を供へ造らん。又、汝が祭祀を主らんは、天穗日命是也」。 是に大己貴神報へて曰く、「天神勅の敎へ、如此は慇懃なり。敢て命に從がはざらんや。吾が治せる顯露の事は、皇孫當に治すべし。吾は將に退きて幽事治さん」。

(日本書紀)

 幽冥を以て、天堂と対立する地獄の意と解する事は、宣長の学徒たる平田篤胤の、為さなかった所であるとともに、それを宣長の如く豫美と同一視する事も、為し得なかった。後者の理由は二つある。次回は、この二つの理由から始めるとする。この二つの理由こそ、幽冥とは、死後に於ける霊魂の世界となる根拠たり得るのである。

※参考文献
  • 「村岡典嗣著 増訂日本思想史研究」
  • 村岡典嗣著 増訂日本思想史研究

 


Leave a comment

Your email address will not be published.


*