近江聖人 中江藤樹 ~我が國における素読からはじまる教育~

 最近、塚本幼稚園の教育方針を、反日マスコミがいかにも反日的に偏向報道を行ってゐる。その中でも「教育勅語の暗誦」をよく取り上げ、相変はらず反日の視点で否定してゐる。私も「教育勅語の暗誦」を、毎日行ってゐるのであるが、ここでは「教育勅語」についての検証等は行はない。

 [素読・暗誦] 江戸時代の藩校の暗誦教育では、四書(大学・中庸・論語・孟子)、五経(易経・書経・詩経・礼記・春秋)を中心とする「経書」を教科書とするのが多数を占め、この漢学(四書五経)の指導形態は、素読・講義・会読・輪講・質問などであった。藩校とは、近世の諸藩が主として藩士の子弟を教育する為に、17・18世紀の江戸時代中葉より19世紀後半の幕末・明治初期にかけての学校である。全国初の藩校は、寛永18年(1641年)、岡山藩主池田光政が設立した、花畠教場である。池田光政は、儒教を信奉し陽明学者・熊沢蕃山を招聘した。熊沢蕃山といへば、代表的著書『集義和書』がある。蕃山は、「近江聖人」と称へられた「中江藤樹」に師事した。その藤樹は、大塩中斎(平八郎)も然り、陽明学者として有名である。彼らが陽明学の書物に親しみ、そこから自分の教説・実践の糧を得てゐた事は確かだが、明代における陽明学流行の基盤とは全く異なる文脈において、自己流に陽明学を理解した上で自説を展開したに過ぎない。それはさておき、では、このやうに、我が國における「素読、暗誦」について、すなはち「素読からはじまる教育」を、「近江聖人 中江藤樹」を通じて考察したい。

 藤樹に師事した熊沢蕃山の著書『集義和書』中に出るものは、藤樹の生前に近い時期のものとして貴重であり、しかも藤樹に師事したもっとも重要な門弟の記すものとして信憑性の高いものでもある。ここにその一部を引く。

『朋友問て曰く、江西の学者感応篇をよみ、又誦経の威儀を勤めたる事ことときく。世人是れを笑ふ者あり。…聖賢伝授の心法の師なくて、中江氏初てさまざまに心をねりて試られき。心法の受容にたよりあるべきことは、まづ取て受容してたすけとなせり。ふたつのこと全くよしとはおもはざりしかど、志のきどくなる時あるは誦経の威儀なり。…志は殊勝なれども異端の流にまがふ故に我は不用なり。』
(熊沢蕃山著 集義和書)

 『集義和書』のこの記述は、備前岡山藩池田光政に仕へる熊沢蕃山の周辺で中江藤樹が推し進めた心法の学の特異性が話題にされてゐたことを伝へてゐる。「あそこの学者はこともあらうに『太上感応篇』を読んだり、毎朝『孝経』を拝誦する「誦経の威儀」を勤めたりしてゐるさうだ」といふ、藤樹の学が繰り広げる異端宗的な雰囲気への嘲笑と非難とを含んだ話題のされかたである。そのことの真偽を尋ねる問ひに蕃山は、「その通りだ」とその風評を肯定する。そして草創期の学者の試行錯誤を伴はざるを得ぬ苦労を斟酌しながら蕃山は、「皆細工初にて、事はよからざりしかども、志はよかりしかば、侮べからず」といふ。だが蕃山はさうした行動そのもの、すなはち『感応篇』を読み、「誦経の威儀」を勤めたりする行動そのものが「異端にまがふ」ものであることを否定しない。彼自身はだから「用ゐない」といふのである。

 ここで子安宣邦氏は、「藤樹の学とその学舎の雰囲気が当時、すなはち藤樹生前に間近い時期に、すでに異端的な逸脱の風をもったものとみなされてゐた。」と表現してゐる。そのことの反面は、正統乃至正常とされる儒家の学や知識の風が一方にすでに存在しはじめてゐるといふ事でもある。唯ここでいふ正統とは、林家朱子学の学風を指すわけもなく、また異端といっても江西の陸王の儒風をただちに指すわけでもない。

 「誦経の威儀」とは、藤樹の『孝経』受容のあり方に大きな影響を与へた明の江元祚の編纂する『孝経大全』に、編者江元祚の撰述になるものとして「全孝心法」などとともに収められてゐる文章である。『全集』の編者はこの「誦経の威儀」について、「按ずるに啓蒙(藤樹の著書 孝経啓蒙)の旧本此れ(誦経の威儀)および孔伝の序を載す。而して新本は載せず。蓋し先生孝経を尊信し、学者に訓へて、毎晨拝誦し此の法を遵守せしめしこと、学舎坐右戒、集義和書に見ゆ。是れ旧本之れを載すの職として由る所なり」と解説してゐる。藤樹が毎朝『孝経』をこの「誦経の威儀」の行法をもって拝誦したといふ事実を、「学舎坐右戒」と『集義和書』を傍証として編者はいってゐるのである。

 「誦経の威儀」における『孝経』に対する姿勢を、子安宣邦氏は、「経書への学的なあり方からはるかに逸脱し、読経・読誦といふ仏教の経典受容のあり方に接近してゐる」といってゐる。読誦(読経)とは法華経の説く観行五品位(随喜・読誦・説法・兼行六度・正行六度)における修行の一階梯である。経典はそこでは何より心身の行法を通じて深く受持されねばならない。藤樹のこの「誦経の威儀」による『孝経』受容を、子安宣邦氏は、「逸脱」と表現し、「それは学知のレベルにおける経典受容から心身的な行法レベルにおける経典受容への逸脱」といってゐる。

※参考文献
  • 「子安宣邦著 江戸思想史講義」
  • 「小島毅著 朱子学と陽明学」
  • 子安宣邦著 江戸思想史講義
  • 小島毅著 朱子学と陽明学

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